オール埼玉総行動の戦闘的方針と行動
杉浦公昭
オール埼玉総行動実行委員会は、コロナウイルスを「正しく恐れる」を旨として、感染対策を取りながら九条改憲発議阻止の企画をしっかり成功させる戦闘的方針を取りました。
その方針の街宣部分を要約すれば、今年5月31日の壱万人規模の総行動に向け1月から4月までの7日間掛けて、県下15地域から50名程の参加を得て、県内27ケ所の駅頭で、演説、宣伝、署名等の活動を進めるものです。
同「委員会」と大宮区市民連絡会は、50名の参加者がマスクをかけ、8日午前11~12時、雨のかからない大宮駅西口で、改憲発議に反対する
署名30名程を集めました。
私は、川越区の街宣に参加出来なかったので、大宮区の街宣に少雨と腰痛に打ち勝ち、手押し車で参加しました。
今こそ正念場、共に頑張って行きましょう! 敬具。「オール埼玉」の正しく恐れるコロナ対策に感動!
杉浦公昭
「オール埼玉総行動実行委員会」は、1月から4月までの7日間掛けて、県下15地域から50名程の参加を得て、県内27ケ所の駅頭で、宣伝、署名、演説を企画し取り組んでいます。
ご承知のように、3月期の街宣活動は新型コロナ対策の山場と重なり、私たちの取り組みは安倍9条改憲発議阻止とコロナ感染対策の2つの闘いと位置付けて進めています。
「オール埼玉」としては、「正しく恐れる」を旨として、感染対策を取りながら、一つひとつの企画をしっかり成功させる方針を決めました。
後援団体の埼玉弁護士会は自ら予定したパレードを中止し乍ら、私たちの取り組みへの弁士派遣を約束してくれました。
また、連合埼玉も自分たちの集会、街宣中止を決め乍ら、「街宣中止を連合内各組織に要請している」立場から、「マイクは握れないが」とメッセージを寄せてくれました。
私は、こうした「オール埼玉」の「コロナウイルスの感染防止対策」を進めつつ、安倍9条改憲発議阻止の闘いの手を緩めない方針の戦闘性に感動しています。
将来、政権を預からして頂く市民 と野党の連合は、今回のコロナウイルスの感染対策でも、与党の後手後手の対策に勝たねばならないと考えます。
お互いに力を合わせ2つの闘いで勝利し、前進して行きましょう!
私も足手まといと思いますが、枯れ木も賑わいと、8日大宮駅西口宣伝に参加を予定します。(84才腰痛持ちの自称青年)
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オール埼玉総行動実行委員会としての新型コロナ対策方針
コロナウイルス感染問題で様々な集会・企画が自粛ムードに染まってきています。オール埼玉総行動実行委員会としては、「正しく恐れる」を旨として、感染対策を取りながら、一つひとつの企画をしっかり成功させていきます。
1、実行委員会の全県会議(県下15地域から50名程度の参加)等については
①参加者のマスク着用を個々に要請
②会場に、アルコール性消毒液の配備で、全員に励行。(医療生協の協力で準備完了)
③マイクを回すときは、その度に除菌用ウェットティッシュでの除菌実施。 (実行委員会事務局で調達実施。調達完了)
④ 咳エチケットの徹底(マスク着用、ティッシュ・ハンカチで口鼻を覆う、上着の内側や袖で口を覆う)
⑤ 途中休憩と、会場の換気実施
風邪症状(発熱・咳・だるさ)、下痢・吐き気・その他消化器系の異常、頭痛、動悸などがある場合は参加を見合わせること。(無理をしないで休養し、医療機関受診)
◎ (マスク不足へのやむをえない対策として、水洗いして天日干し(30分)し再利
可。(マスクと口鼻の間にガーゼ活用も有効。)
2.実行委員会が企画する街頭宣伝については
①上記1をベースに、実施する。
②マスク着用できない方は、署名・チラシ渡し等不特定市民との接触を避ける
配置と、役割分担を行う。(該当地域連絡会に要請) 咳エチケットを徹底する。
③各地域での集会等でも、感染予防措置の対策を立てて臨むことを呼び掛ける。
3.5.31総行動については、
①上記1.2をベースに、 感染状況を踏まえつつ、感染予防措置を準備して実施する。
②1万人規模の集会に向けて、当面1万人分のアルコール性消毒液の購入に着手する。(予算化し、計画的購入を準備する)
③日頃のマスク着用・うがい・手洗いの習慣づけを呼び掛け,当日に臨む。
4.今後の感染状況に注目し、必要な手立てを整える。
コロナ対策チームを設置し、変化に応じて具体的対応を検討し情報発信する。
2020年2月25日
オール埼玉総行動実行委員会・15地域連絡会交流会議合同会議
筑波大学軍事研究採用への抗議署名を!
「桜を見る会」は追いつめているが、改憲は狙われている!
杉浦公昭
「桜を見る会」の安倍答弁は、不誠実なはぐらかしばかり。
【募ってはいるが募集はしてない】という。
その中で、「募るも募集も同義語」と突かれ、シドロモドロ。
巷では、「小学校からやり直し!」の声さえ聞こえます。
これは野党議員の共闘に追い詰めらた結果です。
この問題は、公金を「安倍後援会』のために使った。
公職選挙法違反に当たると考えます。
以下のURLをヤフーかグーグルで検索して
2020年1月28日衆議院予算委員会の質疑を見て下さい。
【凡そ数分で、字幕表示つきで見られます。】
https://youtu.be/udWUvanOJa8
Sent: Friday, January 31, 2020 2:56 PM
To: オール埼玉総行動の皆様へ
Subject: [オール埼玉総行動よりお知らせ 00030]
オール埼玉総行動実行委員会 参加団体、よびかけ人、賛同人各位
1.5・31オール埼玉総行動のチラシができました。
①版下を活用し増刷して拡散してください。表面と裏面 2つのPDFファイルです。
②個人のみなさんも、版下を使って拡散ください。
2.2月・3月の宣伝行動の一覧を送ります。エクセルファイルです。
①もよりの宣伝箇所に積極的に参加されるよう願います。
②団体では、関係する地域連絡会と連絡をとりあって、参加をすすめて
いただけるようご努力ください。
以上 よろしくお願い致します。
2020年1月31日 オール埼玉総行動実行委員会 実行委員長 小出重義
事務局長 贄田教秋
人類は、協力して第3次世界核大戦を防ごう!
杉浦公昭
正月4日、トランプ大統領は、自国軍隊にイラクの証人を得ずバグダッド空港で、イラン「革命防衛隊」のソレイマニ司令官を空爆によって殺害させました。
これは、あからさまな国連憲章に違反した無法な先制攻撃であり、決して許されるものではありません。私は驚くと共に、人類の第3次世界核戦争への突入を恐れました。
イラン政府は、怒る国民に押され報復として、米軍に漏れることを前提にイラク政府に事前通告してイラク国内の米軍駐留基地に抑制的なミサイル攻撃をしました。そして、ザリフ外相は
「釣り合いの取れた自衛措置を完了した。われわれは事態の悪化や戦争を望まない」と緊張緩和に向けたメッセージを発しました。
米軍人の被害者が (0又はは80人)と少なかったために、トランプ大統領は、「イランは矛を収めつつあるようだ」と指摘し、「米国はすばらしい軍と装備を持っているが、使いたくない」と述べ、軍事力で反撃する考えがないことを明らかにしました。
しかし、これで一件落着ではありません。何故なら、イランの核問題をめぐる国際合意からトランプ米政権が一方的に離脱したことから生まれた両国間の緊張は依然高まったままであり、この事態を受けてトランプ氏は「直ちに追加の厳しい経済制裁を科す」と表明し、「軍事的な威嚇を含め、最大限の圧力を加える姿勢に変わりないこと」も強調しました。
一方、日本の安倍政権は10日、河野防衛相に中東海域の情報収集を口実として自衛隊の派兵を命令させました。安倍政権が、トランプ大統領の「有志連合」には形の上では参加しないけれど、バーレーンの米軍司令部に自衛隊の連絡官を派遣する形で実質的に参加する中東沖への自衛隊の派兵を閣議決定したことは、中東の緊張関係が激化するもとで、いっそう無謀かつ危険きわまりないものとなっています。
紛争地域での情報収集は軍事で言う「偵察活動」であり、敵対行動になるので、「偵察」を受ける国は、当然反撃します。従って派兵された自衛隊は紛争に巻き込まれ、武力行使することになります。
私は、このように危険な自衛隊派兵の閣議決定を直ちに撤回することを、強く求めます。 日本政府がやるべきことは、自衛隊派兵によってこれ以上緊張を高めることでなく、トランプ氏にイラン核合意への復帰を求める平和的外交努力こそ行うべきです。
このようにして今回、人類は辛うじて第3次世界核戦争を避けられましたが、紛争の話し合い解決のルールが全世界で定着していない以上、今後いつ何時破滅的核戦争を起こさないとも限りません。平和で豊かな地球を子孫に残すためにあらゆる知恵を絞り、力を合わせて頑張り抜きましょう!(2020年1月11日記す)
ジブチに向かうP3C哨戒機=11日午前10時50分、那覇市の那覇航空基地(琉球新報より)
「沖縄県民の気持ちに寄り添う意見書」川越市議会で全会一致で可決。
杉浦公昭
米軍のやりたい放題を許すな─ ─沖縄の水道水汚染の元凶は米軍だ!!
友人の星英雄さんからメールが届きました。
【「沖縄と日本の未来のために沖縄を考える」(http://kangaeru.okinawa)に〈米軍のやりたい放題を許すな──沖縄の水道水汚染の元凶は米軍だ〉をを掲載しました。沖縄で大きな問題になっている、米軍による水道水汚染の問題です。
基地があることで、45万人が飲めない水を飲まされている】そうです。
これに対して、私は、次の様なコメントをしました。参考にして頂ければ幸いでする。
飲み水は、命の根源です。 (PFOS+PFOA)が北谷浄水場の水道水は、34ng/L含有され、あまい米環境保護庁の飲料水中の生涯健康勧告値70ng/Lには合格するものの、米国保健福祉省の基準18ng/Lやミシガン州の17ng/Lには不合格です。環境科学の原則は、『疑わしきは使用せず』です。
従って、飲み水中には毒物や発癌物質等を含まないことが原則です。
住民運動家の伊波さんが言われるように、他の安全な水源に切り替えるべきと考えます。
オール埼玉総行動実行委員会の大規模集会へのお誘い
杉浦公昭
三日後の11月26日(火曜日)、大宮駅西口で、
オール埼玉総行動実行委員会の大規模集会が開かれます。
野党四党の弁士も決まり、街頭にはステ看も立てられました。
九条改憲を阻止し、公的「桜を見る会」を私的後援会活動に
悪用する安倍政治を止めさせるために、是非参加して下さい!
(ステ看写真は二橋氏の物借用)
敬具。
「国連 16才怒りの訴え」を見て下さい。
杉浦公昭
友人の元東洋大学教授の吉田収先生が、「国連 16才怒りの訴え」共に涙なしで見れぬ、テレ東newsのYouTubeビデオをご紹介下さいました(拡散希望)。
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投稿者: limitlesslife
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映画「新聞記者」を見て、投票に役立てて下さい。
杉浦公昭
藤井道人監督の『新聞記者』を見て下さい!
昨日、あまりにも衝撃的な一本の映画が全国公開されました。
菅義偉官房長官に果敢に切り込みつづけている東京新聞・望月衣塑子記者の著書を原案とした映画です。
詳しくは、以下のURLをご覧下さい。
劇場公開日2019.06.28
りてら https://lite-ra.com/2019/06/post-4799.html
『新聞記者』予告篇 https://youtu.be/zdPSidwlJ_I
米国のスノーデンは、本人が出演した映画で、「米国は、全世界の人々の個人情報を集めて、世界制覇に利用している」と告発・警告していました。
「その個人情報の集め方のノーハウを米政府は、日本政府に提供した」とも証言していました。
日本政府の内閣情報調査室は、そのノ―ハウを駆使して日本国民抑圧に使っていると考えられます。
是非、汚れた政治の裏側を見て、投票の参考にして下さい。
敬具。
子どもの健康と命を守らない環境省!それでも貴方は政府を支持しますか?
福島第一原発事故に対する除染の結果生じた大量の原発汚染土が子供の遊ぶ公園や緑地を作るためにも使われるという方針がまとまったそうです。
子どもの健康と命を守らない環境省など百害あって一利なし!
それでも貴方はこの国の政府を支持しますか?
尾鉱毒と闘った田中正は、明治33年(1900年)2月17日の国会で、「財用を濫り民を殺し法を蔑ろにして而して亡びざる國なし。之を奈何。」と質問しました。
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環境省 緑地公園造成に汚染土…非公開会合で
毎日新聞の最終更新 3月26日 10時18分より
除染作業で出た汚染土などの仮置き場に積み上がる無数のフレコンバッグ
=福島県富岡町で、本社ヘリから森田剛史撮影
東京電力福島第1原発事故に伴う除染で出た汚染土をくぼ地の埋め立てに再利用し、造成した土地を公園などとして使う案を環境省が検討していることが分かった。同省は先月、放射線 の専門家を集めた非公開会合でこの再利用案を協議しており、27日の公開会合で提示する方針だ。しかし、既に明らかにされている防潮堤などへの再利用と異なり、子供らの遊び場にもなる公園への再利用は議論を呼びそうだ。
非常に重要な集会とパレードのご案内をいたします。
杉浦公昭
3.11から7~8年、放射能はどうなっているか?
第28回「矢ヶ崎先生ゆんたく学習会」が、2019年3月23日に沖縄の牧志駅前ほしぞら公民館で開かれました。
第28回「矢ヶ崎先生ゆんたく学習会」100ベクレル以下は安全?とんでもない誤りです!
小出裕章さんを講師にして第40回ヒロシマ連続講座が、2018年1月20日に都内北区・北とぴあで開かれました。
小出裕章「3.11から7年 放射能...」
杉浦公昭
桜も散り、新緑の美しい季節を迎えています。
みなさん如何お過ごしでしようか。
一昨日「平和といのちと人権を!5・3憲法集会」が行われ、
65000人が東京の有明会場に集まりました。
憲法遵守義務のある総理大臣が「2020までに憲法を改正する」
と憲法違反の旗振りをしていて許せません。
そこで今日は、日本国憲法がどのような事情で生まれてきたか、
い私の友人、元東洋大学教授で、米国在住の仏法山禅源寺・住持の
吉田収先生から送られてきた、以下の文章を参考までに転送致します。
この連休の時間を使い 、人類不滅の法典・日本国憲法の成り立ちを
知ってもらえたら幸いです。長文をお許し下さい。
敬具。
(この事実は、以前から断片的に知って居ました。)
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幣原喜重郎元首相が語った
日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について
From: 平和・平安:非戦・非核 Peace/Safety: No War/No Nuke
Sent: Saturday, May 04, 2019 8:05 AM
To: ksugiura@…
Subject: [新規投稿] 幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について
limitlesslife の投稿:" 幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について 日本国憲法(にほんこくけんぽう) *この項目では、昭和22(1947)年に施行された「日本国憲法」をベースにしており、今後、憲法の改定があった場合も基本的には更新されません。 憲法関連ページ目次 幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について 経緯 主な幣原の言 戦争放棄条項等の生まれた事情・" メール返信で投ごしでしょうかす稿にコメントできます。このラインより上に内容を書いてください。
平和・平安:非戦・非核 Peace/Safety: No War/No Nuke の新規投稿
幣原喜重郎元首相が語った 日本国憲法 – 戦争放棄条項等の生まれた事情について
投稿者: limitlesslife
みんなの知識 ちょっと便利帳
幣原喜重郎元首相が語った
日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について
日本国憲法(にほんこくけんぽう)
*この項目では、昭和22(1947)年に施行された「日本国憲法」をベースにしており、今後、憲法の改定があった場合も基本的には更新されません。
憲法関連ページ目次
幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について
経緯
主な幣原の言
戦争放棄条項等の生まれた事情・全文
平野三郎の著書
簡易・テキスト版 憲法改正草案要綱の発表の経過についての説明 “押し付け憲法論”とマッカーサー書簡
幣原喜重郎(1872-1951)写真:幣原平和財団
1946年・昭和21年(今から73年前)に公布され、1947年・昭和22年(今から72年前)の5月3日から施行された「日本国憲法にほんこくけんぽう」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎しではらきじゅうろう 霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。
世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉の四原則に貫かれ、終始一貫して変わることがなかった。
しかし軍国主義が台頭し始めるや、この平和外交は一般の風潮と背離するようになり、軍部の圧力におもねる徒らな強硬論が巷に氾濫していった。
そうした嵐の中にも幣原外相は厳として動かず、いささかも平和主義を曲げなかった。
やがて幣原外交は軟弱の標本とされ、腰抜け外交の異名から、果ては国辱外交、売国外交とまで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられるに至った。
だが、牙をむいて迫る軍部を前に、山のごとくたちふさがっていた。
しかし、昭和六年、満州事変が勃発するに及んで退陣のやむなきに至った。(中略)
千駄ヶ谷の幣原邸の塀には国賊、売国奴の落書きが書きなぐられ、道行く人が邸内へ投石した。
「水底の没人」となった彼は、外には南京陥落、真珠湾攻撃、シンガポール占領と、勝った勝ったの街のどよめきを聞きながら、十四年間をじっと堪えていた。
大政翼賛会にも最後まで入らず、野に下った「国賊」幣原が、戦後一躍総理大臣に返り咲いたのは昭和天皇の命であった。
昭和20年10月6日、幣原に組閣の大命が下り、幣原は拝辞したが、重ねての天皇からのお召しに「幣原は陛下の両眼に光るものを見た」と平野は記している。かくして、その後「平和憲法」を生むことになる幣原内閣が誕生した。
" href="https://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html?fbclid=IwAR3ClOSV5_2Dc_jh4BYYeay1vqyRTulq1-SEHoxfeXUsdC8PaB6Iwypi6GI#cite-text-0-0" name="cite-ref-0-0">
[1]元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。
聞き手は衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎[2]で、聞き取りは、幣原が亡くなる10日ほど前の、1951年・昭和26年(今から68年前)[3]の2月下旬に行われたとされる。
幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年・昭和39年(今から55年前)の2月に憲法調査会[4]事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。
これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。
平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 - 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。
憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長[5]から面会の申し込みがあった。(中略)
高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。
私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」
高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。
(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。
決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。
(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。
もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。 (中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
それに対し、博士は、「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
というのであった。
そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。
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【平野三郎の憲法調査会への『報告書』による、幣原喜重郎元首相の主な言】
(括弧内は平野の質問の要旨)
(第九条は現在占領下の暫定的な規定ですか、何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか)
一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。
(軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか)
それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。
次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋[6]ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。
僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
(他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら)
その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。
(憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています)
そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、〈中略〉憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。〈中略〉幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
世界の共通の敵は戦争それ自体である。
(ここまで敬称を省略しています)
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ここまでの平野氏による文書の内容と以下の資料は、国立国会図書館憲政資料室所蔵の「憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵[7])」より、「資料請求番号165」の『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について - 平野三郎氏記』を、当サイトが国立国会図書館複写サービスを利用して入手し引用したものです。
国立国会図書館憲政資料室が所蔵する平野三郎氏による文書 - 幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
国立国会図書館憲政資料室が保管する平野三郎氏による文書
資料の引用にあたっては、縦書きの原文を横書きに変更しました。
また、閲覧される方の視認性に鑑み、「問」と「答」の段落に原文にはない装飾を加え、さらに本文中に改行を加えるなどしています。
また、登場する人物などについて原文にはない脚注を付けています。
「第一部」の、平野氏による「前文」に当たる部分に『内拘』という言葉が見られます。『なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、『 』の部分で、これは『内容』の誤植ではないかと思われます(ご利用の方からご指摘をいただきました)が、「憲法調査会資料」の原文がそのようになっているため、『拘』の字に「ママ」とルビを振り、『内拘(ママ)』と表記して原文のままとしました。
このページの転載・引用に制限はありませんが、転載・引用をされる場合は、「みんなの知識 ちょっと便利帳」からであることを明記し、できるだけこのページへのリンク、もしくはURL( https://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html )を表記をしてください。
なお、転載や引用をされる際に便利なように、脚注や装飾などを除いた『簡易・テキスト版』のページをこちらに用意しましたのでご利用ください。
【 戦争放棄条項等の生まれた事情について・全文 】
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昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏記―
憲法調査会事務局
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はしがき
この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
昭和三十九年二月
憲法調査会事務局
第一部
私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日[8]ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳[9]にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内拘(ママ)[10]については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。
問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。
実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。
問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。
答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。
問 死中に活と言いますと … … …
答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
問 しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。
答 そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。
それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有
効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。
そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。
要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋[11]がきたと僕は信じた訳だ。
問 それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。
答 そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。
恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。
したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。
そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。
原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。
果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。
要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。
問 お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。
答 その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。
僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。
問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥[12]の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
答 そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。
幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。
この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君[13]にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。
日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。
また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。
問 天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君[14]にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。
正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君[15]からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
第二部(省略)
「第二部」は、幣原氏がなぜ非武装平和主義という考えに到達したかなど、平野氏の記憶に残る幣原氏の世界観をまとめた一文で、平野氏は「まえがき」に次のように記している。
私が幣原先生にお会いして憲法について伺ったお話の内容は、前記のように、メモにとどめておいたのであるが、当日のお話の中には、先生が、なぜ非武装平和主義といった、誰しも思い及ばないような考えに到達されるにいたったかということについての、先生の世界観というようなものも、多分に出ていたのである。以下は、このような先生のお考えがよくわかるよう、先生の世界観で記憶に残るものをも加えて、当日伺った戦争放棄条項の生まれた事情を一文にまとめたものである。
底本:『憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)』(国立国会図書館憲政資料室)より、「憲法調査会事務局作成・幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について -平野三郎氏記-」(1964年・昭和39年2月)
《平野三郎氏による、平和憲法成立のいきさつなどを記した著書》
『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』 講談社 1972年(昭和47年)4月
『平和憲法の水源 ― 昭和天皇の決断』 講談社出版サービスセンター 1993年(平成5年)7月
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平野氏は、『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』の「まえがき」と「あとがき」に次のように記している。
《『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』「まえがき」より抜粋》
この日本の宝は、決して外国から貰ったものではなく、幣原喜重郎というれっきとした日本人の手に成ったものである。
本書はこの事実を明確にし、この点の論争に終止符を打つべく書かれるものである。
私はこの憲法を産み出した幣原喜重郎その人の生涯と思想を紹介し、世の多くの人々の理解と共鳴を得たい。
そしてこの偉大な平和憲法が、うっそうたる大樹の如く永く日本の大地の上に繁茂すると同時に、やがて全世界に向かってこの精神が及び、人類永遠の平和の基礎となることを念願するものである。
《『平和憲法秘話 ― 幣原喜重郎その人と思想』「あとがき」より抜粋》
終わりに、枢密院顧問会議の情景を記して置こう。
それは枢密院そのものを廃止する最後の沈痛な会議でもあったが、そこで幣原首相が、政府の憲法改正案を説明した時である。
以下の説明中、第九条の段になるや、声涙ともに下る調子になり、首相の老いた両眼から、大つぶの涙の玉が落ちて頬をつたわるのを、並み居る顧問官たちが認め、一同顔を見合わせたという。
この涙こそ、憲法の真実が何であったかを語る、もっとも雄弁な証拠ではあるまいか。そしてこの涙の光と共に、日本国憲法という政治的傑作が、永久に光り輝く、と私は確信する。
以下は、幣原首相の説明文である。
戦争放棄は正義に基づく大道でありまして、日本はこの大旗をかかげて国際社会の原野を独り進まんとするのであります。原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促しましたが、今後は更に幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も出現を見るでありましょう。今日のところ世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲しておりますが、他日新たなる兵器の威力により、短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰するを見るに至りますれば、その秋こそ、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるでありましょう。その頃は私は既に命数を終わって墓場の中に眠っているでありましょうが、その時、私はその墓石の陰から後をふり顧って、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたいと思うのであります。
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《脚注》
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^幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872年(明治5年) - 1951年(昭和26年)
1924年(大正13年)の加藤高明内閣で外務大臣に就任し、4度の外務大臣を歴任。第44代の内閣総理大臣(1945年・昭和20年10月9日 - 1946年・昭和21年5月22日)として新憲法の草案作りに関わり、制定時には、吉田茂内閣の国務大臣として憲法公布文に副署している。
秘書官であった平野三郎の著書『平和憲法の水源』によれば、
幣原は ー「霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。
世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉の四原則に貫かれ、終始一貫して変わることがなかった。しかし軍国主義が台頭し始めるや、この平和外交は一般の風潮と背離するようになり、軍部の圧力におもねる徒らな強硬論が巷に氾濫していった。そうした嵐の中にも幣原外相は厳として動かず、いささかも平和主義を曲げなかった。やがて幣原外交は軟弱の標本とされ、腰抜け外交の異名から、果ては国辱外交、売国外交とまで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられるに至った。だが、牙をむいて迫る軍部を前に、山のごとくたちふさがっていた。
しかし、昭和六年、満州事変が勃発するに及んで退陣のやむなきに至った。(中略)
千駄ヶ谷の幣原邸の塀には国賊、売国奴の落書きが書きなぐられ、道行く人が邸内へ投石した。「水底の没人」となった彼は、外には南京陥落、真珠湾攻撃、シンガポール占領と、勝った勝ったの街のどよめきを聞きながら、十四年間をじっと堪えていた。
大政翼賛会にも最後まで入らず、野に下った「国賊」幣原が、戦後一躍総理大臣に返り咲いたのは昭和天皇の命であった。
昭和20年10月6日、幣原に組閣の大命が下り、幣原は拝辞したが、重ねての天皇からのお召しに「幣原は陛下の両眼に光るものを見た」と平野は記している。かくして、その後「平和憲法」を生むことになる幣原内閣が誕生した。
^平野三郎(ひらのさぶろう)1912年(明治45年) - 1994年(平成6年)
1949年(昭和24年)から5期連続衆議院議員を努め、1966年(昭和41年)から岐阜県知事を3期歴任。衆議院議長であった幣原喜重郎元首相の秘書官も努めた幣原の側近である。1964年(昭和39年)2月に、幣原から聞き取ったメモを元にした『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題する報告書、いわゆる『平野文書』を憲法調査会に提出している。
^平野氏が幣原元首相への聞き取りを行い、また、幣原元首相が亡くなった1951年(昭和26年)は、「サンフランシスコ講和条約」が締結された年で、9月8日に署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。この条約によって、国際法上は、連合国諸国と日本の「戦争状態」が終結し、連合国は日本国の主権を承認した。
^内閣の憲法調査会
憲法調査会法の規定に基づき1956年(昭和31年)6月11日に内閣に設置された委員会的機関である。構成は委員総数50人以内(うち国会議員30人以内、学識経験者20人以内)で、委員間の互選により会長1人、副会長2人が選出された。他に必要に応じ専門委員を増置するほか、常設の事務局が庶務を処理した。1964年(昭和39年)7月3日に内閣と国会へ「憲法調査会報告書」を提出し実質的な活動を終え、1965年(昭和40年)6月3日に廃止された。(出典:Wikipedia)
^高柳賢三(たかやなぎけんぞう)1887年(明治20年)- 1967年(昭和42年)
大正・昭和期の代表的英米法学者として知られ、東京裁判での日本側弁護団の一人。内閣に設置された憲法調査会会長も務めた。新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。(出典:Wikipedia)
^秋(とき)
「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
^「西沢哲四郎旧蔵」資料
1964年(昭和39年)7月の憲法調査会最終報告書提出の時期をはさんで調査会事務局長を務めた西沢哲四郎氏が所蔵していた同会関係の資料で、1986年(昭和61年)に国立国会図書館に寄贈された。
^旬日(じゅんじつ)
10日、10日間のこと。従って、平野氏が幣原氏に話を聞いたのは、「急逝される旬日ほど前」と記されており、幣原氏が亡くなる10日ほど前のことであった。
^謦咳(けいがい)
「咳払い」の意で、「謦咳にふれる」は「尊敬する人の話を身近に聞くこと」。
^内拘
『内拘』は、文脈からして『内容』ではないかと思われるが、「憲法調査会資料」の原文がそのようになっているため、『拘』の字に「ママ」とルビを振りそのまま表記した。
^秋(とき)
「時」と同義で、『危急存亡の秋』などのように、重要な時期、大切な時機などを表す場合に「秋」とも書かれる。
^ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)1880年(明治13年) - 1964年(昭和39年)
アメリカの軍人で陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官。
^松本烝治(まつもとじょうじ)1877年(明治10年) - 1954年(昭和29年)
幣原内閣の憲法担当国務大臣で、憲法問題調査委員会委員長。1946年(昭和21年)2月8日にGHQに提出した「憲法改正要綱」作成の中心となった。
^吉田茂(よしだしげる)1878年(明治11年) - 1967年(昭和42年)
幣原内閣で外務大臣を務め、新憲法公布・施行時は内閣総理大臣。第45代、第48代〜第51代と総理大臣を歴任した。
^金森徳次郎(かなもりとくじろう)1886年(明治19年) - 1959年(昭和34年)
第1次吉田内閣で憲法問題専任の国務大臣として新憲法の制定につくし、憲法公布とともに「新憲法普及会」の副会長を努めた。国立国会図書館初代館長。
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日本国憲法(にほんこくけんぽう)
*この項目では、昭和22(1947)年に施行された「日本国憲法」をベースにしており、今後、憲法の改定があった場合も基本的には更新されません。
憲法関連ページ目次
limitlesslife | 2019年5月3日 6:05 PM | カテゴリー: 未分類 | URL: https://wp.me/p9zBUD-eH
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このままでは終わらせない…“森友事件”のいま
杉浦公昭
3月26日に<テレビ東京>が放送したドキュメンタリー“森友事件のいま”が
友人の「NHKとメディアを考える会」の西川幸氏から送られてきました。
事件の本質が簡潔によくまとまっていると思います。
以下のURLをCtrlを押しながらクリックし、現れた小学校の写真の右の<ユーチューブ>か、
その下の文字盤をクリックするとご覧になれます。
ぜひ、ご覧ください。
敬具。
ザ・ドキュメンタリー このままでは終わらせない…“森友事件”のいま https://www.tv-tokyo.co.jp/documentary_190326/#cxrecs_s 2019年3月26日(火) 27時25分~27時55分 BS東京放送より 森友学園をめぐる国有地の売却問題で公文書の改ざんをさせられた近畿財務局の職員がAさん命を絶ってから1年。Aさんの父親が遺書の中身や今の心情を明かしました。 また、Aさんの死をきっかけに立ち上がったのが近畿財務局などのOBたち。テレビの取材に初めて顔を出して証言してから、半年。「このまま終わらせてはいけない!」と新たに動き始めています。そして、当事者である籠池氏は今どうしているのか…。 “森友”事件のいまを見つめます。 森友学園と篭池理事長
篭池夫妻
近畿財務局などのOBたち
自殺した近畿財務局Aさんの父親 ナレーション余貴美子
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「辺野古の新基地建設是非を問う県民投票について」
I LOVE憲法・代表世話人 杉浦公昭
元シールズ琉球の元山仁士郎さんは、一般市民も巻き込んで米軍のための新要塞基地建設の賛否を問う「『辺野古』県民投票の会」を立ち上げて代表となり、賛成署名を必要数の4倍の11万筆を集め、投票条例を勝ち取りました。
しかし自民党の宮崎正久衆院議員は、各市の投票事務予算案の否決を促す資料を配布して、投票不参加を指南しました。
もともと県民投票は、県条例に基づき実施されるので、経費は県の負担になっていたのに、沖縄県内5市議会が、市の予算不足等を理由に投票不参加を決定し、市長は市議会の意向に従っていました。
そこで、元山さんは、全市町村での投票の参加を促すため、15日から宜野湾市役所の前で抗議のハインガーストライキを始め、105時間後ドクターストップとなりました。
この青年にヘイトスピーチしたり、「ハンストはテロ行為だ」と騒ぐ自民党国会議員秘書さえ現れました。
首都大学東京の憲法学者・木村草太さんによれば、「住民投票権を奪うのは憲法違反、住民投票条例は、市町村に投票事務の拒否権を与えるものではない。(居)住市町村によって投票権を奪うのは、憲法14条1項(法の下の平等)に反する。投票へのアクセス否定は憲法21条(表現の自由)侵害の恐れもある」と述べました。
若者の決死の訴えに全県・全国からも支援が寄せられ、幸いにも、県議会議長の「投票の選択技として賛否以外に『どちらでもない』を加える3択妥協案」が、全会派で一致し、全県実施が決まりました。
これによって、「法の下の平等」違反状態は避けられ、全県民の民意が問われる民主主義が辛うじて守られました。
投票結果は、反対が43万4273票(72.1%)、賛成派11万4933 票(19%)、どちらでもないが5万2682票(8.7%)で、反対は7割をこえ、またも沖縄は、「辺野古ノー」の明確な民意を示しました。
しかも県内41市町村全てで「反対」が「賛成」を大差で上回りました。新基地反対は文字通り、「オール沖縄」の意思で、民意です。
この結果は、軟弱地盤をはじめ工事の無謀が様々に明らかになるなかでの圧倒的NOの結果であり、普天間基地の危険除去の解決策は「辺野古が唯一」とくり返す安倍政権への痛烈な批判にもなっています。
森本元防衛相や米軍の専門家も軍事的には「辺野古か唯一」の選択肢ではないと言い、辺野古の米軍新基地建設は、政治的な選択だと断言しています。
米朝会談が続けられ北東アジアの平和の流れの中で、今、日本政府に求められる役割は、基地をなくしていく道に知恵と力を尽くすことです。
投票結果を受けて、安倍首相は「真摯に受け止め、基地負担の軽減に全力を尽くす」と述べました。しかし、この言葉とは裏腹に辺野古では埋め立てが続いています。
他方、玉城デニー沖縄県知事は、「改めて辺野古新基地建設の阻止に全身全霊を捧げていく」と誓っています。
そして、政府に対しては、「沖縄県民の断固たる民意を真正面から受け止め、『辺野古が唯一』と言うこれまでの方針を直ちに見直し、工事を中止するとともに、普天間飛行場の一日も早い閉鎖・返還という根本的な問題解決に向け、これまで再三求めてきた県との対話に改めて応じるよう、強く求めて参る」と言っています。
また、「国民の皆様も、安全保障の負担は全国民で担うという考えのもと、一人一人が自らの問題として議論を行って頂きたい」と訴えました。
さらに「辺野古」県民投票の会代表の元山さんは、県民投票が学生や20代の労働者など青年たちが動いて取り組まれ、「沖縄政治史で初めてといっていい政治・社会的実績を残した市民・若者主導の運動となった」と強調しました。
彼も、全国に向けて、「県民投票のことを周りに発信し続け、それぞれの地域で議論して、辺野古の基地は中止すべきだと、全国的な機運を高めてほしい」と呼びかけました。そして、「できる範囲で、できることをやっていけば変えられると実感した県民投票でした。みなさんにもそれが可能だと信じています。一緒に頑張っていければ」と語りました。
沖縄県民投票の報告をする「『辺野古』 沖縄県民投票の結果を受け、玉城デニー沖縄県知事が 県民投票の会」の元山仁士郎代表=27日、 25日未明、県庁内で記者会見を開きました。 国会内にて
今、沖縄の若者達は、自分達の将来は自分達で考えようと行動に立ち上がっています。沖縄キリスト教学院大学3年の大城妃南子さんも、県民投票への参加を促す動画を制作し、投票活動に参加しました。
「『辺野古』県民投票の会」代表元山仁士郎さんと知事選で自民党系陣営の元青年部長を務めた移設容認派陣営の嘉陽宗一郎さんの2人の若者が出会い、緊密な関係を持ちました。
その2人に県民投票の成否について尋ねると、彼らは口をそろえて「成功だと思います」と答えました。
彼らが言う「成功」とは、対立や分断を乗り越えた「対話」の空気が、沖縄の若者の間にできつつあると言うことでした。
確かに、違いを越えた「対話」なしに、健全な民主主義は育たないのですから、その芽が育ち始めたのは「大成功」と言って良いと、私
は考えます。
また「米朝会談」も同様に、世界は、今、対立を超えた「対話」こそ重視される時代を迎えています。
日本の夜明けは、沖縄からかも知れませんね?!
眼前に地方と国政の連続選挙が迫っています。今度は日本全体で国民の意思・「民意」を示そうではありませんか。
(2019年2月28日記す)
沖縄「辺野古」県民投票を巡る問題
杉浦公昭
敬具。