この目で見た田中正造揮毫の「階級闘争」

kyutono9

2020年04月09日 01:27

       この目で見た田中正造揮毫の「階級闘争」

杉浦公昭

 さまざまな事情で、この一文を書くのが遅れましたが、人生残り僅かになりましたので、此処にまとめて記しておきます。

   2002年元日の早朝に、私の友人である民医連・秩父診療所の高橋昭雄医師から電話で年賀の挨拶があり「杉浦さんは環境を良くする研究に熱心で、田中正造に強い関心を示して居たから、今日は、貴方が興味を持つと思われる話をしてあげましょう」と凡そ次のような話をされました。

【私の父・高橋周司は明治18年生まれで、昭和39年に亡くなりました。父は、20代の時、国粋主義者で片山潜と談判し、論破されて社会主義の正しさを知り、片山潜宅で書生を1~2年していたこがあります。

 その頃、父は、早稲田大学で友達の吉田璣が田中正造に書いてもらった『階級闘争』と『団結は力なり』の書の内の一枚『階級闘争』を、吉田璣から貰ったと言います。

    この書は、1972年3月当時、父親から譲り受け、1971~1972年頃、参議院選挙の全国区候補者として埼玉に遊説にこられた塚田大願氏に託してまず片山潜、幸徳秋水他数名の遺墨の絵はがきなどを寄贈し、続いて表装した『階級闘争』も寄贈しました。そこで、共産党にお願いして、一度見せてもらったら】と薦められました。

   早速、2002年1月4日、共産党本部に電話し、田中正造揮毫の『階級闘争』を見せてもらうようお願いしました。

   それ以来、いろいろ探して下さいましたが、共産党本部建築時の度重なる移動で見失っていたそうですが、2009年4月20日頃、「田中正造の書が見つかった」と連絡がありました。そこで、田中正造研究者や田中正造思想の継承者ら9人を誘い合わせて2009年6月1日、共産党本部を訪ね田中正造揮毫の「階級闘争」を見せて頂きました。

          田中正造揮毫の「階級闘争」

 『階級闘争』と『団結は力なり』の二枚の揮毫書が書かれたのは、小池喜孝著「谷中から来た人たち」(新人物往来社発行)、によれば、明治37年11月12日、宇都宮市清水町清巌寺で開かれた社会主義演説会で田中正造が「社会主義実行の急務」を演説した時と推定されています。

   1978年、近代史研究家の東海林吉郎氏は、「田中正造と足尾鉱毒事件研究」(第一号) に発表した論文「足尾鉱毒事件における直訴の位相」で、「天皇への直訴は『石川、幸徳との共同謀議に基づき、世論喚起と鉱毒反対闘争の活性化を狙いとした』ものであり、従って田中正造は、それまで世間に定着してきた『義人』ではなく『戦略戦術家であった』」としました。

 今日でも田中正造の直訴をめぐって研究者間に様々な議論がある中で正造揮毫の「階級闘争」がみつかった意義は大きいと考えられます。

  田中正造揮毫の「階級闘争」を見て喜ぶ見学者たち

 宇都宮大学名誉教授の梅田欽治氏は「『階級闘争』は乞われて書いたもの、『団結は力なり』は本心から書いたものと考えられる」、布川了氏は「谷中村に入った正造は、村を滅ぼす国家権力の中枢に天皇を考えていた。この『書』は本物だ」、飯田進氏は「名前の『正造』の筆跡が他の遺墨と全く同じ、これはまさしく正造の『書』だ」、共産党名誉役員の金子満広氏は「『団結は力なり』から、大衆の要求に基づいて大衆と共に闘えば、大衆の心をつかむことができると学んだ」等と参加者間で話が盛り上がりました。

 田中正造揮毫の「階級闘争」を見て喜ぶ杉浦公昭さん

 最後に私は「日本共産党のイニシァチブで日本中の学者・研究者に呼びかけて討論会を組織し、より正しい田中正造像を定着させ、地球規模の環境と平和を守る闘いに役立つように広めて下さい」とお願いしました。

   参考文献

1):東海林吉郎著、「足尾銅山鉱毒事件における直訴の位相」(『田中正造と足尾鉱毒事件研究』第1号67-175頁、1978年7月21)           

2):小池喜孝著、「谷中から来た人たち―足尾鉱毒移民と田中正造―」(()新人往来社発行、1972年)                                                          

3):島田宗三編「田中正造翁年譜」







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