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「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものとは?
        杉浦公昭

826付け北京日報に掲載された「改造日本纪实:中国人的世界惊を私の友人・近藤氏が日本語に全訳して下さました。

 「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものの実態を、可なり詳細に知ることが出来ました。

  やや長文ですが、日中関係を知る上で大変重要と考えますので、以下に全文を掲載させて頂きます。

 世界情勢の違い、大国となった中国の立場から本来比較は困難と思いますが、当時の中国政府がとった人道的な処遇を、今の習近平政府が取れるかどうか疑問です。

   習近平政府が今回「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものを、北京日報に公開したのは、日本だけでなく、中国人民にも学習させることに有ったと考えられます。

うかうかしていると日本人民も真実を学ばない遅れた人々にされてしまうと思います。

  しっかり学んで、立派な民族として近隣諸国とお付き合い出来るようにしたいものです。

                                                                                                         敬具

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改造日本战犯纪实:中国人的宽容让世界惊叹
(日本語全訳:近藤)
日本戦犯改造のドキュメンタリー:世界を驚かせた中国人の寛容さ
(责编:刘戈、陈建军)[編集責任:劉戈・陳建軍]
2014年08月26日08:33 来源:北京日报2014年8月26日原文:北京日報


1956年,日本战犯站上了最高人民法院特别军事法庭被告席。前排右一为铃木启久,右二为藤田茂。
1956年、日本戦犯が最高人民法院特別軍事裁判所の被告席に立つ。前列右端が鈴木啓久、右から2人目が藤田茂。
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目次(小見出しは訳者による)
① 撫順戦犯管理所:“再生の地”
② “一人も逃げず、一人も死なず”
③ ソ連側のデマ:“お前たちはダモイ”
④ 中国医科大学卒業して、戦犯管理所勤務
⑤ “米飯と東北煮込み料理”
⑥ そこは、“撫順典獄”だった
⑦ “終わった、一生石炭掘りだ”
⑧ 改築された管理所~暖房・医務室・浴室・理髪室・運動場~
⑨ 戦犯か、それとも捕虜か?
⑩ “文の武部、武の藤田”、“毛主席に会わせろ“
⑪ 国際法に照らして
⑫ 徳を以て怨みに報いる
⑬ “真冬にトマトがあるものか!”
⑭ “母親のように私の面倒を看てくれた。”
⑮ 石さえもうなずく
⑯ “大和魂の手本”
⑰ 一人も殺さない
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⑱ 被告は裁判官席と傍聴席に向かって跪いた
⑲ 死刑なし、最高でも懲役20年・刑期はソ連抑留から算定
⑳ 帰国の航路で“中帰連”誕生、その遺産
○21 “赤色分子”“過激分子”“洗脳”
○22歴史を忘れない~“中帰連”から“奇跡を受け継ぐ会”へ
○23《謝罪の碑》とアサガオ
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① 撫順戦犯管理所:“再生の地”
国家档案局(資料保管部門)が7月3日から毎日一人ずつ45名の日本戦犯の中国侵略の罪業供述書を公表してきた。一人目の鈴木啓久は、日本軍第117師団中将師団長だった。彼の供述書の一節はショッキングなものだ。“私の記憶では、中国人5470人を殺害し、焼き払い破壊した中国人民の家屋は18229戸、実際はおそらくもっと多い。”
1956年、鈴木等45名の重罪戦犯は中国の裁判所で正義の判決を受けた。この判決では一人も死刑判決を受けなかった。他に1017名は起訴されず、釈放され帰国した。中国人の寛容さは世界を驚かせた。
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さらに、戦犯の表現は驚異だった。全ての戦犯は余すところなく犯罪を認め、法に服し、中には主体的に死を以て償うことを望んだ。第2次世界大戦後の日本戦犯を裁いた裁判で、このような全ての罪を認め、罪を悔いた戦犯は他にはいなかった。
1964年3月、全ての日本戦犯は釈放され帰国した。1000余名の新中国による改造を経た戦犯は、“中国帰還者連絡会”をつくり、まれに見る勇気と誠実さで侵略戦争の罪悪を暴露し、“中日永久の不再戦”のために奔走し呼びかけた。
あの時日本戦犯を収容し改造した管理所は“再生の地”と称された。かつて、日本軍国主義によって仕立て上げられた悪魔は、新中国で良心をとりもどし、それぞれ戦争のロボットにされていた精神は人間性を回復した。
② “一人も逃げず、一人も死なず”
1950年7月19日、ソ連から来た有蓋列車が中国辺境の小都市・綏芬河駅に入った。ふつう、国際列車はこの駅でレール変更する。ソ連の鉄道は1529センチ、中国のは1435センチだった。しかし、この列車で交換されたのはレールではなく“乗客”だった。光を遮断した有蓋車の中には969名の日本戦犯が積まれていた。
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中国側の収容専用列車が、ホームのもう一方に止まって、これらの戦犯を撫順戦犯管理所に運ぶために待っていたのだ。
1945年8月、ソ連赤軍は中国東北に進軍し日本関東軍を潰滅させ、一挙に60万余りの捕虜を確保した。ソ連の統計によると、あわせて577567人を日本に返し、ほぼ10分の1の捕虜が気候・病気等によりソ連で死んだ。新中国成立後間もなく、毛沢東はモスクワを訪問し中ソは友好同盟相互援助条約を結んだ。同時に協議し、ソ連は日本戦犯と傀儡満州国の戦犯を中国に引き渡し中国の法律に照らして処理し新中国の地位と権威を世界に示すことを取り決めた。
中国に引き渡された969名の日本戦犯はソ連が認定した“中国人民に対する重大罪業を犯した″者だった。
引き渡しの儀式は、綏芬河鎮(現在は市となっている)の役所の広間で行われた。書類上の手続きが終わり、中国側はソ連の責任者を宴席に招待した。中国側代表のひとり、東北公安部政治保衛所執行科科長・董玉峰の記憶では、当時は正に“中ソ友好万歳”の時期で、特に親しく乾杯を重ね、飲まされて酔いつぶされた。同行の幹部は、ソ連拘留管理局のクラトフ中将はほろ酔い機嫌で“こいつら戦犯は
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皆極度の反動・頑迷な悪者でどうしようもない奴らだ、殺すしかない。”と言ったのを覚えている。
これらの評判は、酒場の話であれ、本当の気持からであれ、中国側の日本戦犯への態度に影響することはなかった。中国側の戦犯受け取りの要請は、“一人も逃げず、一人も死なず”であり、これは、周恩来総理が特に言い渡したものであった。
③ ソ連側のデマ:“お前たちはダモイ”
董玉峰は監視・管理の責任を負い、任務を受け取った時この要請を考えた。“一人も逃げず”はやさしい、“一人も死なず”は難しい、今後予想外のことが発生するかも知れない。
ソ連側では、はっきりとこのことを考えていた。あるひとつの嘘で、中国に渡す前に日本戦犯をおとなしくさせていた。一人ならず、日本戦犯は記憶している。ソ連人は彼らを有蓋車に乗せる時、“中国を経て日本に帰る”と通告していた。
ソ連の有蓋車車両が、20日開けられ、日本戦犯をひとりひとり点呼した。中国側は、ホームのもう一方で再度彼らの名前を呼び、日本戦犯はそれに答え、実弾を装填した中ソの兵士が監視する下で、中国の収容専用列車に乗り込んだ。
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元撫順戦犯管理所看護士長・趙毓英も中国側の隊列にあって、日本戦犯が恐れてホームで躊躇するのを見ていた。彼女は思い出して話した。戦犯たちはひとりひとりちじこまって頭を下げ、きょろきょろ周りを見て、とても緊張して取り乱していた。それに、あの時は最も暑いときで、ソ連の有蓋車はサウナ状態で、戦犯は服装も乱れ、汗にまみれ、汚れきって、惨めななりだった。幾人かは、乗馬靴を履いた高級幹部がいて、威張った面持ちだったが、軍服は汚れ破れていた。汗が浸み出して正に身なりには合わない惨めな風だった。
④ 中国医科大学卒業して、戦犯管理所勤務
趙毓英は、傀儡満州国の瀋陽生まれ、彼女は、自分は“亡国奴の子ども”だったという。中国を侵略した日本の鬼が捕らわれの身となったのを見て、“恨みは解け、貴方がたも今日がある!”
趙毓英は、その時瀋陽の中国医科大学を卒業したばかりで、高級介護専門科を学び、これまで、監獄や囚人との関わりは全くなかった。しかし、卒業の前日、学校の通知は、もう一人の優秀で品性の高い卒業生と一緒に東北戦犯管理所で3ヶ月の秘密の任務に就くことだった。管理所について彼女はこの任務が日本戦犯に対応することだとわかった。当時、彼女は、それから日本戦犯と数十年のつながり
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がもたれようとは思いもよらなかった。
趙毓英等専門の医療看護チームの随行は、中国が日本戦犯を接収する安全準備のためである。彼らは周到な準備をしていた。
日本戦犯を接収した汽車は東北鉄道局が配備した専用列車だった。ソ連の有蓋車ではなく、客車用車両が選定され、各人に座席があり、とても気持ちのいいものだった。窓は全てしっかりと閉じられ新聞紙が貼られていた。これは、戦犯が跳び出すのを防ぎ、また、彼らが襲われるのを防ぐためでもあった。もし、侵略・迫害を受けた東北の群衆が“乗客”を見つけたら、どんな行動に出るかわからない。
各車両には1名ずつ監視員が配置されたが武器は携帯していない。全ての指揮所には電話が設置され、突発的な事態に備えていた。
⑤ “米飯と東北煮込み料理”
日本戦犯に用意された食物は、ハルビンで購入された数千斤の白パンと数百斤のソーセージ・塩卵だった。ソ連の担当員は、これらの食べ物を見てとても欲しがり、彼らの黒パンよりよっぽどいいとして、すべて交換した後、直接持ちかけ彼らの塩干し魚と交換して数箱のパンをもっていった。
中国の汽車で、戦犯が最初に食べたのは米飯と東北煮込み料理だっ
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た。趙毓英は記憶している。戦犯たちは見境なく一挙に食べ尽くした。一人の戦犯は彼女に“もう5年、こんな食事はしていない。”と言った。多くの者は、ソ連で厳しい肉体労働をして毎日、ただ1斤の黒パンと塩スープだけだった。飢えて、山菜・蛇・鼠を食べた。
おいしい食べ物、看守は厳しいが優しい態度であり、日本戦犯は落ち着いてきた。途中で唯一意外にも、一人の戦犯が急性盲腸炎になり、趙毓英等は牡丹江駅で降り、病院に運び応急手当てをした。
丸2日で、専用列車は早朝3時に撫順に着いた。管理所では準備万端、途中の道は短時間の戒厳体制がとられ、将校級戦犯と病人が車に乗る以外は、集団で歩いて管理所に送られた。
暗闇の中、撫順東北戦犯管理所の二階建ての本館は黒々とした輪郭を浮かび上がらせていた。戦犯たちは突然さわぎだし、この建物が、かつて人を震撼させ恐怖に陥れたものであることが分かった。
⑥ そこは“撫順典獄”(てんごく)だった
戦犯たちの前に屹立する管理所は、彼らはもともと“撫順典獄”(撫順てんごくー天国)と呼んで、1936年関東軍が建てたものだ。14年前の建造者は、14年後の囚人となり、歴史の巡り合わせは一つの風刺のようである。なんと、この中には大村忍というかつて
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10年典獄長を務め、ここの恐怖と血のにおいをよく知っている者がいた。
撫順戦犯管理所は大村忍の供述書を保管し、彼の所業の部分は“私はかつて自ら尋問し拷問を加え、手かせ足かせ・竹刀などを使って・・”“1945年6~8月、病死56名、死体処理では部下を好く監督せず、埋め方が浅かったので死体は犬に掘り出され・・“などと書かれている。
大村の経験では、ここに留置された者は残酷な扱いをされ最後には多くが死んだ。
⑦ “終わった、一生石炭掘りだ”
ここに来たことのない戦犯にも撫順が重要な石炭産地であることはよく知られていて、ソ連で苦役を受けた者は“終わりだ、ここで一生石炭掘りだ。”と憶測した。
元管理教育担当の劉家常は記者に語った。ずっと後になって、戦犯はここに入った時の激烈な心理動転を吐露した。“彼らはいろいろ考えた。” 劉家常は笑いながら回想し、管理所はもともと撫順典獄として選ばれたのであり、彼らを侮辱する意思はなく、苦役をさせる考えもなく、逆に、彼らにさらに良い留置条件を提供するものだ
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った。
しかし、もし撫順典獄のいわれを考えると、これらの戦犯はさらに泣くに泣けず笑うに笑えないであろう。正に、日本人が管理所をつくったその名目によって,正しく留置したのは違法な日本人だった。
日本は傀儡満州国の成立を図った後、満鉄を伴う行政権を傀儡満州国に渡し、日本の治外法権を撤廃した。これは、傀儡満州国政権成立のためのお芝居にすぎなかったが、日本侵略者はとても周到で、撫順典獄が示すように、日本人が傀儡満州国で法を犯したら、治外法権の庇護は受けられず、監獄に入れられる。そこで、日本は当時の“模範監獄”、建築・牢獄は一般より素晴らしいものを建てた。典獄長・大村忍は、ここに留置された数千人の中で、“日本臣民”は幾人もいなくて、ほとんどは中国抗日の志士だったとはっきり示している。“模範監獄”の外面の下で、掛け値なしの人間地獄であった。
その面積は6600㎡、そのうち3分の1は刑罰・尋問に充てられ、倉庫は100平方メートル余り、尋問室・絞首刑室・実験室・“鎮静部屋”等次々と。
⑧ 改築された管理所:暖房・医務室・浴室・理髪室・運動場
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日本戦犯を受け取る前、東北人民政府司法部は約40万元を投じてこの監獄の改築を行い、暖房設置、窓の拡張、講堂・医務室・浴槽などの新設をし、清掃をして、形状は運動場に改築し抗日軍民を攻めた“鎮静部屋”は理髪室と浴室に変わり・・獄中に図書室と映写室をつくった。
管理所に入った戦犯は、元の職階に基づいて各監房に分けられた。
全部で七棟の官房があり、第5・6棟には将校級以上が6人で1つの部屋。第3・4棟には将校以下が12人で1部屋、第7棟には病人、第1・2棟は同じくソ連から来る傀儡満州国の戦犯のために確保された。1か月後、溥儀と“皇族”・“大臣”たちがそこに入った。
ソ連からの戦犯意外に、地方公安機関からの4人、1956年には太源で判決を受けた9人が加わった。この他、100名あまりの解放戦争と新中国成立直後に逮捕した日本戦犯が太源戦犯管理所に収容された。新中国は、合わせて計1113名の日本戦犯を収容した。
管理所での初めての夜は、長旅の疲れと知らない環境・不確かな前途への恐れが入り混じってはいたが、まずまず静かに過ぎていった。夜が明け壁に貼られた通告を見て、戦犯たちは大騒ぎとなった。
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⑨ 戦犯かそれとも捕虜か?
通告の内容は管理条例と活動時間表で、特にどうというものではなかったが、戦犯をあわてさせたのは、公告の名義:戦犯管理所であった。
中国語を全く理解しない者でも“戦犯”の2文字は分かる。1945年に捕虜にされてから戦争捕虜として収容され労役が課された。
ソ連は1949年、ハバロフスク裁判で、12名の細菌戦を実施した日本戦犯に審理判決を下したが、中国に送ったものについては及ばなかった。直接、中国に入った彼らは、依然として自分は捕虜だと認識していた。
捕虜と戦犯、これは同じではない。まったく異なる運命。
捕虜は犯罪ではなく、戦後には釈放・送還されるべきで、ソ連人も承諾した。戦犯は戦争犯罪者で裁判にかけられ断頭台に送られる可能性がある。
一字の違いだが、生死にかかわる。ある者はすぐ引きちぎって“抗議”するとわめいた。あるものは、扇動しそそのかし情緒不安になった。すぐに騒動が起こり、監房内は騒然とし、ハンストさえ始まった。管理所はすぐに対応し、見張り台には機関銃が設置され、警
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備担当者は銃を携行し、刀も持った。巡視は5分に1回と頻度を高め、軍靴を履き、“カッカ”と音を立て、威嚇の態勢をとった。実際は、日本戦犯に見せるだけで、兵士の銃は脱獄か暴動など極端な時に使われるものだった。実際の懲戒は、自由活動時間の短縮、少数の騒ぎの首謀者が独房に収容されるというものだった。
情況はすぐに落ち着いたが、決して簡単に自分の身分を受け入れたわけではない。戦犯と捕虜は未来を分けるだけでなく過去を決める。彼らは中国侵略時の全ての行為は犯罪ではないとした。
自己の罪業の否定・心理は同じとはいえない。ある者たちは、自己の犯したことをはっきり分かっているが、全てを国家と戦争のせいにし、自己を免れようとした。さらに多くの者は、日本軍国主義がつくり出した悪の花であり、根本的に中国を侵略し中国人を虐殺したのは犯罪であるとは認識しない。彼らはいかなる悔恨もなく、捕虜の身分に対しても不満で不当であり“武士道”にそぐわないと考え、改造を拒み、逆らうことが“武勇”であると勘違いした。
騒ぎはすぐに収まったが、抵抗は続いた。
⑩ “文の武部、武の藤田”、“毛主席に会わせろ。”
ある日、元59師団中将師団長・藤田茂は管理教育幹部・金源のと
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ころに来て、所長・孫明齋に会わせろと迫った。金源は流暢な日本語で2人の通訳に当たった。
藤田茂は戦犯の中で階級が最も高い一人であるばかりか、ゴリゴリの軍国主義文死だった。ソ連から撫順に来た時、彼と、長年傀儡満州国“太上皇”にあった武部六臓は一貫して日本戦犯の中心的人物で“文の武部、武の藤田”と言われていた。
金源の回想によると、藤田茂は長い間、軍国主義分子の象徴である仁丹髭を保っていた。孫明齋と会った時、藤田茂の態度は尊大で、“俺は毛主席に会いたい、手配しろ。”と言った。
孫明齋穏やかに笑いながら、気持ちを押さえて“話があるなら私に言いなさい。”と述べた。
藤田が言うには、収容されているのは全て捕虜だ、戦争は終わった、釈放して帰還させるべきだということだった。
孫明齋は彼に告げた。“ここには捕虜はいない、戦犯だ。あなたは罪業が重大な首謀者の一人だ”。藤田は当然不承知で2人はやり合った。孫明齋は、道理と威厳を以てしばらく諭したが藤田は全く聞き入れない。最後に孫明齋は起ちあがって、半ば命令、半ば鄭重に“あなた、《帝国主義論》をよく読めば、帝国主義がどんなものか、
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自分の思想に照らしてあなたが戦犯かどうかがはっきりわかる。”と言った。
藤田は去った。別の重大人物がやってきた。彼は傀儡満州国高等法務官を担当し、“法律の権威”を自認し、“国際法”・“国際公約”を大いに語り、いろいろ引用、筋道を立て、彼らが捕虜であり戦犯ではないと証明しようとした。
戦犯たちはもう大規模な騒ぎを起こさず、転換して連名で《抗議書》を書き、それを国連に渡そうとして、自分達は“不法な待遇”を受けていると称した。
⑪ 国際法に照らして
劉家常は言う。戦犯が“国際法”の概念を持ち出して来た時、管理所は本当にいささか焦った。誰も“国際法”なるものを知らなかった。そこで、手を尽くして関係資料を取り寄せ、まず、幹部に学習させた。
“国際法を学んで、多くの幹部はとても腹が立った。” 劉家常は言う。“あの戦争に対する罪・戦犯の定義、一つ一つがこれらの日本戦犯に当てはまるのに、彼らはまだ国際法を敢えて論じるのか?”
日本戦犯が国際法の定義を持ち出すからには、国際法で反撃しよう。
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管理所は集団学習を組織し、特に戦後の戦犯を裁いたときに制定・応用された一連の法律条文を学ばせた。
ニュルンベルク裁判より適用された《国際軍事裁判所憲章》は、初めて戦争に対する罪の種類とランクを規定し、A級戦犯とは、平和に対する罪を犯した戦争指導者であり、日本のA級戦犯は既に極東軍事裁判で判決を受けていた。撫順に収容された戦犯はB/C級に当たる。
“戦争罪“この1条についてだけでも、誰も逃れられない。戦争放棄と慣例に違反し、占領した国あるいは占領地の一般民衆の謀殺、虐待、奴隷労働またはその他の目的のための拉致・追放、捕虜や海上にいる人に対する謀殺・虐待、公私財産の略奪、非軍事施設の破壊…。
本当は、あの国際法を持ち出してきた戦犯はしらばっくれているだけだと見られ、これでは彼らの態度を変えられない。しかし、多くの下級の戦犯は、もともと国際法の戦争罪と戦犯の定義を知らない。これらの学習は彼らに自分の行為を反省させた。戦犯は逃れられないもので、その身分を受け入れることが正に罪を認める始まりであった。
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⑫ 徳を以て怨みに報いる
日本の戦犯は、戦犯と捕虜の身分で混乱していたが、管理所のスタッフは別の内心葛藤を経験していた。これらの日本人は仇なのかそれとも犯人なのか?
管理所出発時、全部で145名のスタッフがいた、多くは軍人出身、抗日戦争の経験があり、日本軍との生死を分かつ闘いを経験していた。初代所長・孫明齋、副所長・曲初は歴戦の革命家で、孫明齋のおじさんは日本軍のシェパードにかみ殺され、曲初の脚の傷痕は日本軍から賜った、その他の者もそれぞれ日本兵の“血涙の記録”を書ける。最も極端な例は、王興という看守員で10歳の時7人の親族が日本軍に刺し殺されるのを目撃した。
最も若い趙毓英等であっても、日本の侵略をわが身で体験していた。彼らが日本戦犯に対応する眼差しは憎しみを伴った。しかし、スタッフとしては、個人の深い怨みは差し置いて、無条件で命令に服し、戦犯に対し“3つの保障”即ち人格を侮辱しない保証・生活条件の保障・身体の健康保障を実施する。孫明齋所長はみんなに思想教育をしたが、自分に説得するようだった。“私はみんなが納得していないことを知っている、実は私も初めは納得していなかった、
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しかし、周総理は言った。゛20年後我々の仕事を振り返った時その意義・価値がわかる゛″。当時のスタッフは皆、孫明齋が言った例えを覚えている。“我々は今抑制し自分の感情を犠牲にしている、これも戦闘だ、あの時は戦場で日本兵と刺しあった。当時は武装し何も怖くなかった、今、彼らを改造するのに何の難しいことなどあるものか?”撫順戦犯管理所は、判決前の戦犯を収容するところで、“監獄”とはいえない監獄だ。監獄というと、暗く、冷たく、残酷で、怖いイメージがある。ここでは、自由がない以外、本当の囚人よりもずいぶん優遇されている。
最初の数日、提供した食事は雑穀を混ぜた高粱飯・饅頭が主だった。当時の中国人の水準から言えば、これはミドルより上のものだった。管理所の職員が食べていたのもこんなものだった。
それでも戦犯には我慢できなくて、まず拒絶し、食事を家畜用の桶に投げ捨て、続いてハンストに進んだ。
幹部は怒って言った。“彼らは食べなくても飢えない。この雑穀を食べなければ、次もこうしてやれ。”
ある者は“桶には餌があり、驢馬は死なない、数日はいいことだ。”と言った。
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しかし、数日たっても、頑迷分子はずっと絶食した。どんな原因であれ、管理所で戦犯が餓死したら悪い影響があるので、すぐに状況を上級に報告した。
間もなく東北公安部は周恩来総理の指示を伝えてきた。戦犯を将校・少佐・将官以下の3ランクに分け、小・中・大の3種類の待遇をすること、全て白米と小麦粉を出すこと。
具体的な食事ができると、多くの幹部は理解できなかった。これらの戦犯の食費は最低0・42元、最高1・54元だった。これは何ということか?当時最良の東北米は1斤0・1元、豚肉は1斤0・3元した。最低ランクの戦犯の食事でも、管理所職員のレベルをはるかに上回った。このような“牢飯”(監獄の食事)はおそらく世界のどこにもなかっただろう。
戦犯は、食べ物もよかったが、たばこを吸うものは毎月紙巻きたばこが支給され、毎週風呂に入り、毎月散髪し定期健診を受けた。春と秋には、運動会が開かれ、祝日には会食した。医務室には、中級医院を超す設備があり、後遺症がある者は義肢を作ってもらった。
⑬ “真冬にトマトがあるものか!”
趙毓英は高級介護の専門を学んだ。さらに“栄養看護士”の任務
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は戦犯にメニューを作り栄養のバランスを保証することだった。
毎日、趙毓英がメニューを作り、裏方で買い出し担当の高震が伝票を見て買ってきた。高震は後に趙毓英の夫になった。(2人は結婚した。)“あの時、2人でよく喧嘩したものよ、彼は私に不満たらたらで、゛あんたのつくるメニューの注文は季節を考えていない゛、真冬なのにどこにトマトがあるんだ?゛鮒がほしいと言った時、漁師は日本人に食べさせると聞いて、俺を裏切り者だとひとしきり罵ったよ。”趙毓英は思い出して笑いながら言った。
怨みを抱けば恨みで返される、高震はやはり手を尽くして買いそろえた。炊事担当者も気持ちは同じで、食材を洗う時わざときれいに洗わないで鍋に入れた。これはすぐに発見され指導部の厳しい批判を受け止まった。
趙毓英は言う。毎回の会議で指導者たちは“3つの保障”、規律厳守を強調した。私達もしだいに理解し、戦犯を優遇した。人道主義の実践だけではなく、彼らを改造するやり方だった。中国人がどのように彼らに対応するかを見せること、反省させどう中国人に接したらいいかをわからせることであった。
中国人の徳を以て怨みに報いるは、日本戦犯がなくしていた良心
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に問いかけるものだった。
⑭“母親のように私の面倒を看てくれた。”
“文の武部”と言われたのは、日本戦犯を明示する人物、武部六臓である。彼は1940~1945、傀儡満州国国務院総務長官を任じ、植民地統治の首謀者で、特に頑迷で一貫してすべて“満州国建設を助けた“と宣言した。
1952年、彼は脳血栓を発生、医療看護チームの昼夜にわたる救急治療で助かったが、寝たきりになった。彼を世話するため、管理所は焦桂珍を派遣し専属看護士とした。
武部六臓の1日3食全て焦桂珍は一掬い一掬い口に運んだ。彼が大小便を失禁すれば、焦桂珍はおむつを替え毎日洗った。1956年になって、仮出所するまで彼は4年間床を離れることができなかったが、床ずれ一つできなかった。
審判を受ける前、武部は六臓は最後には全ての罪業を供述した。60数歳の武部六臓は、30数歳の焦桂珍のことを“母親のように私の面倒を看てくれた。”と形容した。
⑮ 石さえもうなずく
朝鮮戦争の勃発により、安全のために管理所はハルビンに移した。
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1952年、撫順に戻った後、中央は新しい指示を出し、戦犯に対し罪を認め批判する教育を始めさせた。
それはこの間ずっと進められてきたもので、例えば、集団的理論学習、帝国主義・軍国主義の本質への理解等。これらの教育の主なやり方は発表・罪の告発であり、各人の具体的な罪に及んだ。
戦犯は必ずしもおとなしく告白したわけではない。ある者は罪を認めることは懲罰を招くと恐れ、ある者は軍国主義の亡霊から脱していなくて、ある者は隠蔽し、ある者は直接抵抗した。
この局面を打開するため、管理所は、“大和魂の手本”と称する鹿毛繁太を突破口とした。
鹿毛繁太は元傀儡満州国錦州市警察局警務長で、在任中、無人区を作り、抗日人士を殺害・・その罪業は山のようだった。管理所に入った後も鹿毛繁太は規律を守らず、管理に服さず、看守に挑戦し、罪を認めた者を脅し、騒ぎを起こした。
看守を公然と侮辱した後、鹿毛繁太は独房に収容された。
劉家常は記者に語った。管理所がもし優遇懐柔政策だけを採ったら、強行分子は更に居丈高になるだろう。我々は肉体的刑罰を採らなかった。しかし懲罰がないというわけではない。独房収容はある種の
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懲罰である。
鹿毛繁太は独房の常連で、当初は意味をなさず、2・3日で出されるだろうと思われた。しかし、今回の出る前提は、自己点検と罪を認める文書を書くことである。
独房拘禁2日後、鹿毛繁太は10数文の自己批判書を渡し、金源によって書き直しを命じられ、4回書き直してやっと通過した。これだけでは終わらず、管理所は全体の前で自己批判することを要求した。鹿毛繁太はあわてて、“考えさせてくれ”と願い出て、7日後、鹿毛繁太の悔恨の声が拡声器から流れてきた。“私は自分の誤りと罪業を検討し…”
⑯ “大和魂の手本”
このように懲罰を通したものは極めて少なく、多くの者は各種の教育によって、また無言の感化によって、侵略戦争中の自らの行為を注視した。良心はよみがえり、邪悪から脱した。
“直接、間接に手にかけ、殺した中国人は少なくとも6000人、いや、はるかに多い・・”かつて傀儡満州三江省警務総局特務所調査課長を歴任した島村三郎は《中国から帰った戦犯》の中で書いた。管理所の日々、彼はかつて迫害した人の顔をひとつひとつ頭に浮か
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べ、“自分が指揮し凍りつく大地で30名の抗日戦死を殺害した、捕虜を生き埋めした、無辜の一般民を切り殺した、生きたまま焼き殺した時の叫ぶ声、トラックに押し込んで731部隊の生体実験に送り込んだ…”
日本軍国主義は彼らを戦争ロボットと血に飢えた鬼に造り替え、鮮血と暴行が彼らの興奮剤だった。戦争が終わり、軍国主義の亡霊は消え、一つ一つこれらの罪業を思い出すのは苦しみではあるが、これは懲罰であろうか。
古海忠之、傀儡満州国総務庁次長、“太上皇2号”と称され、武部六臓が倒れた後、彼は戦犯中の文官職代表となった。“文の武部”は“文の古海に変わった。そして戦犯たちは見た。古海は心から後悔し、“私の過去は完全に人の顔をした獣の鬼だった、私は千万中国人の尊い生命を奪い、億万の財産を略奪した重大責任は逃れようがない″“いくら死してもその罪悪は洗い流せない。”
“武の藤田”の藤田茂も罪を認めた。彼は広島の出身で、原爆が故郷で爆発し広島の惨劇を見た、それは何と管理所で見た日本映画《原子爆弾》だった。この頑迷な戦犯は考え始めた。“日本の悲惨はどのようにつくりだされたのか?中国の以前の惨状は誰がつくり出し
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たのか?”彼は自分の戦争中の暴虐を思い出した。゛全体教育で語った。兵を戦場に慣れさせるには、殺人が手っとり早い、肝試しだ、これには捕虜を使うのがいい。刺すのが撃ち殺すより効果的だ。“彼は自分の罪業に量刑を科して、もし私の罪を論じるなら何回死刑にしても万分の1も償えない。”
1950年から1955年まで、撫順と太源の両管理所で1113名の戦犯全てが反省し罪を認めた。それぞれ自ら自分の罪の供述を書き、最後の審判の時を待った。多くの者が自分は“死をまぬかれない”と思った。
⑰ “一人も殺さない”
筆舌に尽くしがたいとの形容は日本が中国に対して犯した罪悪にぴったりだ。
1954年3月、最高人民検察院は拘禁した日本戦犯に対して“犯罪追及処分”の決定を出した。この後2年間の内に、700人で組織された調査尋問団が撫順と太源両管理所にやってきて、全ての日本戦犯の罪業について審査・尋問・事実確認を行った。
この千名以上の戦犯の罪業を報告書にまとめたが、驚くべきことに“彼らが直接殺害した中国民衆と捕虜は857000人に上り、
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焼き払い・破壊した家屋は78000か所、略奪した食糧3700万トン、石炭2.22億トン・・かつて“武勇”“忠孝”の行為とみなされていた、現在では良心の呵責と反省となった。深く反省した戦犯は自分が“死んで謝罪する”しかないと思い、28名は調査団に処刑願書を渡し、主体的に死刑を申し出た。
藤田茂も死を自認した戦犯のひとりだった。彼は当時の内心を回想録に書いている。“《ポツダム宣言》により、捕虜虐待は重刑。国際法廷の審判ですでに1200名以上の日本軍官が処刑されている。しかるに私は、一戦で86名の捕虜を殺害した。分かっている。これだけでも死刑だ。”
血の債務は血で償う。情も法もこれらの日本戦犯にはその末路は決まっている。しかし、最高人民検察院は彼らの犯罪事実と態度により寛容な処理の原則を採った。最初、中央に報告した公訴方針案では、多くは起訴を免れ、起訴は105名、そのうち70名が極刑だった。
これは既に寛大な処理の公訴方針案であったが中央に否定された。周恩来は報告を訊いて指示を出した。“日本戦犯の処理では一人も死刑にしてはならない、また一人も無期懲役に処してもならない、
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懲役刑も極力少なくすること。起訴状は基本的罪業をはっきりさせ、罪業確定後起訴し、一般的罪業は不起訴とする。”
“殺さず、判決は少なくする”(死刑はなし、起訴を少なくし、量刑を少なくする)の中央決定の精神に基づいて、最高人民検察院は繰り返し検討縮小し、最後に起訴人数は45名のみとした。
⑱ 被告は裁判官席と傍聴席に向かって跪いた
1956年6月19日、戦犯を裁く特別軍事裁判所が瀋陽で開廷された。鈴木啓久が最初に被告席に上がった。彼は最も重大なひとりで、かつて6回の虐殺事件に関わり毎回全村壊滅、これらの事件の生存者が証人として出廷し、鈴木は法廷で跪いて罪を認めた。
7月1日、島村三郎が被告席に上がった日。《中国から帰った戦犯》の中で、彼は“罪を悔いてから、長いことこの日を待った。私は死刑の形で自分の人生を終了することを願った。”と書いている。
夏の蒸し暑い法廷では、氷が用意されてはいたが、島村の衣服はぐっしょり、全神経が固まり、汗をふくことさえなかった。
裁判長が公訴書を読み上げ、島村の当該陳述になった時、彼は突然両膝をつき、声を押し殺して泣きながら、“抗日鎮圧の行動中、私は警察に命じて、厳しく拷問させ、極刑に処し・・私はこの絶叫を
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きいても動かされず、それを楽しみとさえして・・私はその時、鬼であり人間性を失った鬼、私はこんなにも多くの善良な人の子どもを惨殺し一滴の涙も流さなかった・・”
戦争後、世界では戦犯に対して10数か所で国際法廷・軍事法廷が開かれ、審理は延べ数千回に至ったが、新中国最高人民裁判所特別軍事法廷のようなことは見られなかった。45名の戦犯は裁判所が指摘したすべての罪業を認め、弁解はなし、逃れることもなかった。被告席の多くの戦犯は涙を流し激しく泣き、膝を屈し、裁判官席に向かって、また傍聴の中国民衆に向かって跪いた。
傍聴の外国人記者は、“中国の裁判は、検察官と戦犯・被害者と戦犯・証人と法務官と戦犯・裁判官と審判を受ける者それぞれ立場は異なるが、厳粛な法廷で、戦犯と全ての人がそれぞれ日本軍国主義の暴虐を暴露した。これは国際裁判史上例がない。”と論評した。
⑲ 死刑なし、最高でも懲役20年・刑期はソ連抑留から算定
7月20日になって、瀋陽と太源の特別法廷は、4回に分けて判決を行った。起訴された戦犯は死を以て謝罪することを想定したが、中国の裁判官は一人の死刑も出さなかった。鈴木啓久・武部六蔵・藤田茂等罪業の最も重い者でも懲役20年、且つ、刑期はソ連抑留
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時から計算された。更に意外だったのは、45名以外、その他の戦犯は全て起訴免除、2回に分けて釈放し日本に送還された。
判決後、刑が確定した戦犯は撫順戦犯管理所に集められ、服役改造に臨んだ。ここは以後、撫順戦犯監獄と改められた。武部六蔵は重病のため、判決後間もなく仮釈放され帰国した。もう一人は獄中で病死した。
1964年3月、最後の3名が繰り上げ釈放された。この時、彼らが新中国の拘禁改造された時間は合わせて14年だった。1931年九一八事変から1945年日本の投降まで、日本が中国を侵略したのも14年間だった。
⑳ 帰国の航路で “中帰連”誕生、その遺産
天津塘沽港から船で舞鶴まで4日かかる。これが日本戦犯の帰国の航路だった。
1956年6月21日、1000余名の戦犯は新中国政府の起訴免除を受けて、日本の客船“興安丸”に乗り込んだ。4日の航行中、“中国帰還者連絡会”と名付けられた組織が誕生した。“興安丸”が舞鶴港に到着し、多くの者は撫順管理所が支給した服、それは中山服を着ていた。日本の当地の政府機関が彼らのために“大日本帝
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国”時代の軍服と軍靴を渡そうとしたが、一人も受け取らなかった。2日目、“中帰連”は《日本国民に告げる書》を発表し“自ら犯した過ちを認識したなら、どうして再び過ちを犯すことがあろうか?我々は絶対に戦争に反対する、戦争に向かう軍国主義に反対すると述べた。
帰国後初めて登場したのは、文芸報告の形式だった。1956年10月14日、千代田区公会堂には《団結こそ力》・《東方紅》など中国革命歌が響き渡った。
○21 “赤色分子”・“過激分子”・“洗脳”
ソ連と中国に10余年拘禁されていたので、奇異な目で見られ、自分の生活を作ろうとすると多くの干渉を受けた。警察が常に思想調査し、ソ連・中国の情報を提供することを迫られた。会社や社会では、“赤色分子”・“過激分子”のレッテルをはられた。
島村三郎は《中国から帰ってきた戦犯》で書いている。“我々が帰ってきたとき、新聞・雑誌には”洗脳“の新語があらわれ、自己改造に対して、風刺・嫌がらせの限りを尽くした。”
実際は、彼らに対して“洗脳”したのは日本軍国主義であり良心を捨て去り邪悪を注いだ。新中国の彼らに対する改造は、それを“洗
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脳”というなら、邪悪を洗い流し良心を喚起したのである。
戦争の罪悪を暴露し世界平和を守るため、“帰還者”たちは、彼らが中国で拘禁されていた時に書いた《懺悔録》の中から15編を選んで、15枚の写真をつけて《三光》を出版した。これは10日の内に6刷が増刷され、戦後の売上高第2位となった。
○22歴史を忘れない~“中帰連”から“奇跡を受け継ぐ会”へ~
1963年、藤田茂は繰り上げ釈放を得た。彼は帰国後“中帰連”の会長となった。このかつては、熱狂的な軍国主義分子、“武士道精神”の忠実な信徒は、60歳にして日本の平和人士の旗印となった。彼は不断に会員を伴って各地を講演して回り、中国政府の戦犯に対する人道主義的な対応を紹介し自分の経歴を使って、民衆に戦争への反省を説いた。
“中帰連”成立後、中国労工の遺骨を探す活動を提起し、日本に連れてこられた中国労工の遺骨を収集し、募金を集め、遺骨を中国に返した。藤田茂は6回中国を訪れ、また管理所のスタッフの来日を招請した。しかし、ついにこの後者(来日)を実現することはできなかった。1984年、元所長・金源、第1代所長・孫明齋等が団体で訪日したが、藤田茂をはじめ“中帰連”の多くの老兵はすでに
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この世を去っていて、親族が遺骨を持って出迎え、これら老兵の願いを果たした。藤田茂はこの世を去る時、1972年周恩来総理が彼に贈った中山服を身に着けていた。
1988年、“中帰連”会員は22万元を集め、撫順戦犯管理所内に純白大理石の謝罪の碑を建て、背面には中日両国の文字で次のように刻印されている。:日本軍国主義の中国侵略中、我々は放火・殺人・略奪など人を激怒させる罪業を犯した。収容期間中、中国共産党・政府と人民の革命的人道主義の待遇を受け良心を回復し・・ここに碑を建て、抗日殉難烈士に心からの謝罪を表明し再び侵略戦争を許さないことを誓い、平和と日中友好のために貢献する。
時の流れと共に、ますます多くの“帰還者”が世を去った。2002年、生存者はわずかに100人余りとなり、その多くも風前のともしびとなった。この1年、最後の会長・富永正三も逝去し、“中帰連”は解散の運命に臨まざるを得ない。
実態は消滅させても精神は続く。“中帰連”が解散したその日、“撫順の奇跡を受け継ぐ会”が成立を宣言した。そのメンバーは“中帰連”会員の次世代の子どもたちと中日友好に尽力する青年である。彼らは侵略戦争の証拠を記録し季刊《中帰連》を編集し、反戦老兵
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の遺志を継承している。
歴史は特別な人たちが消えても忘れ去られるということはない、“撫順の奇跡を受け継ぐ会”は、このことを証明している。
○23《謝罪の碑》とアサガオ
撫順戦犯管理所の謝罪の碑の傍らには、アサガオの花が咲き誇っている。
この花の種は副島進という戦犯によってもたらされた。彼が釈放され帰国する前に、中国のスタッフが彼に一握りのアサガオの種を送り、告げた。“あなたは中国に来た時、武器を持ってきたけれど、日本に帰る時はこの花の種を持って行って。今度中国に来る時は花を持ってきてくださいね。”
帰国後、副島進は自宅の庭にその種を播き、大事に育て、できた種を近所に贈った。2007年、副島は世を去ったが、夫人が新しく育てたアサガオの種を撫順戦犯管理所に贈った。日本戦犯の謝罪の碑の傍らにはこのアサガオが旺盛に生長している。




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