杉浦公昭
FaceBookで坂井 貴司さんは以下のように書きました。
72年が経っても原爆は終わっていないことを示すニュースを今日8月14日のNHKニュースウォッチ9が放送しました。
広島・長崎への原爆投下の被爆者の相談に応じる相談所があります。被爆者の数が減り、高齢化が進む一方、相談の数は年々増えているとのことです。
相談件数が増えた大きな理由に、差別を恐れて黙っていた被爆者が、人生の終わりを前にして名乗り出るようになったと相談員は言いました。
これまでに寄せられた相談内容をみると、被爆者への差別がいかにひどいものであったかがわかります。特に結婚に関する差別は深刻です。
「結婚式を上げる直前に、向こうの方から破談を通告された。娘が子供の時に被爆したことを探偵を使って知ったらしい。『原爆病が子孫に伝染するから』と言った。娘は自殺した」
「被爆した息子は『被爆者であることを知られたくない』と広島から埼玉県へ引っ越した。それ以来50年間会っていない。全く連絡しなかった。最近、息子が戸籍を変えたことを知った」このようなことがありました。
「相談者の姉は原爆の熱線を浴びて大火傷を負い、ケロイドになった。医師はABCC(放射線影響研究所)へ行くことを強く勧めた。彼女はモルモットにされるのは嫌だ、と断った。医師は『どうせ死ぬのだから』と無理やりABCCに彼女を連れて行った。身体を調べられた彼女は間もなく死んだ。
医師は被爆者をABCCに提供すると、アメリカ製の医薬品を報酬としてもらえることを知った彼女の弟である相談者は、その医師をナイフで刺した。相談者は少年院に入った。少年院を出た後、相談者は現在まで一人で生きてきた。今は東京で生活保護を受けて、孤立した生活をおくっている」。
相談所の係員は「72年間も戦争の被害が継続している例は他にはありません」といいました。
原爆の悪夢は終わっていないのです。
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私は、坂井 貴司さんの投稿に以下のようにコメントしました。
米国は、対日戦争を利用して、対ソ戦争に備えるためと、原爆の人体実験を目的として原爆を投下しました。
米国のABCC病院は、名こそ病院でも被爆者の治療はせず、被害の標本集めばかりしました。
被曝軍医の肥田俊太郎氏は国連のウ・タンと事務総長に被爆者の治療のための放射線の国際シンポを陳情しました。
しかし、事務総長は、「日米政府から「被爆者は1945年末までに全て死んだので、今は病気の被爆者は一人も居ない』と報告を受けている」と受け付けませんでした。
そこで軍縮局長と話し合い、今でも病気で苦しんでいる被爆者の証拠を出すことになり、被団協や原水協の協力で1万数千人の報告書を提出しました。...
その結果1976年に国連NGO主催の被曝問題シンポが東京と広島で開かれ、被爆者の実相が世界に伝わったのです。
被爆者は直接の被害ばかりでなく、戦後、体内被曝による病気にも苦しめられ、同じ国民から差別され、さらに米国の核戦略(被爆者が生きている限り苦しめられる兵器である真相を世界に知られると、核兵器が禁止され事を恐れて隠蔽する戦略)のために病人でありながら病人ではないことにされ今日に至っているのです。
被爆者は「今でも殺され続けている」と告発しています。
国民の皆さんこの史実をしっかり学び、再び過ちを犯さないようにしましょう!
災害にまけずに戻れ!サケの群れ
日本科学者会議埼玉支部代表幹事 入間川にサケを放す会顧問 杉浦公昭
サケばかりでなく、人間も災害に負けずにふる里に戻って欲しいとの願いを表したつもりです。
2017年3月30日、福島県の木戸川にサケを放す地域の人々
( 毎日新聞より)
しかし、サケは地震や津波と言った自然の急変に対して強いばかりか、放射能汚染と言った人工的な自然破壊に対しても比較的に強いことが分かります。
それは、放射性物質で汚染した池や川に住む淡水魚と違い、川から海に出て北の海に行き、放射性物質による汚染が比較的少ない食べ物を食べて長い時間を過ごし、大きくなって帰ってくるからです。
誇らしげに戻ったサケを示す 木戸川漁協の鈴木ふ化場長 ( 福島中央テレビより)
人間は地震や津波に弱いばかりか、放射能汚染にも弱く、例え一時は家や庭などを除染できても、周囲の環境から再汚染し、決して人体への被曝を克服できていません。
そこで、汚染の高い地域から低い地域へ逃げ、ふる里への帰還は、自然の長期の雨などの洗浄効果を待つしか方法がない状態です。
人間の放射能の被曝基準を緩めて汚染地への帰還を薦める政策は、人間の長期の体内被曝による疾病、死亡に至る有意な確率を無視した棄民政策と言わざるを得ません。
人間をふる里へ戻すには原発の安全神話や新しい安全神話に絶縁し、再稼働をやめ、自然エネルギーに切り替える方法、即ち人間と自然との共生の道しかないようです。
ふる里の川にサケを呼び戻す人々の営みは、持続的な発展が望める人間と自然との共生の道でもあります。
メス一匹から約3000個の卵を取り出す木戸川漁協の鈴木ふ化場長 ( 毎日新聞より)
皆さん! 今後、自然災害も核による人工災害も克服して、豊かな自然と調和した持続的に発展する社会を築いて行こうではありませんか?
不測の事態に備えて川内原発は直ちに停止せよ!
杉浦公昭
国の原子力規制委員会は、原子力の規制基準の審査をするだけで、たとえ合格しても安全を保証したものではない。従って稼働の責任は政府や自治体にあるとしてきました。
そこで安倍政権は、「原子力規制委員会は世界一厳しい基準で『合否の判定』をしたのだから安全だ」と規制基準を安全基準にすり替え、再び新安全神話で国民を騙そうとしています。
しかし、今年3月12日 大津地裁での原発差し止め訴訟では「原子力規制委員会の規制基準の審査に合格しても安全とは言えない」としました。
従って川内原発は国の規制基準に合格していても、決して安全とは言えない訳です。
田中俊一委員長は何時、国民や政治家の上に君臨することが許され、認められたのか?
しかも、絶対安全と言える科学的証拠も出せない田中俊一委員長が一般国民や政治家に稼働停止の科学的根拠を要求するとは何事か?
主権者国民は、絶対安全と言えない原発に対して、科学的根拠を示せなくても、福島第一原発事故のように不測の事態が起きないかとの不安から、川内原発を直ちに止めて欲しいと要求できるのは当然です。
今度の熊本大地震が起きて、安倍首相は「しっかりと国民の命を守る」と言うのだから、主権者国民の不安に応えて、不測の事態に備えて川内原発は直ちに停止すべきです。
杉浦公昭
自らの存在をかけて闘わなければ、生き延びられない
7月16日東京・代々木公園で行われた脱原発を求め、再稼働を進める政府に抗議する「さようなら原発10万人集会」に行ってきました。
昨16日は疲れていて頭も朦朧としていましたので、各演者の講演内容を正確には伝えられませんでしたが、今朝二紙の新聞を見て若干修正しましたので、修正版を掲示して置きます。
埼玉県の東上線川越駅で落ち合った「さようなら原発川越の会」30人と川越革新懇(人数不詳)は9時38分発の渋谷行きに乗り、約1時間後に明治神宮前で降り一会場に向かいました。
この時点で『会』ののぼりを見失わないよう進まないと迷子になる程、既に会場入口は可なり混雑していました。
それでも会場中心は空いていて青いビニールシートの上に座れたけれど、比較的高年齢の人が多かったので、熱射病を恐れて会場裏手の欅の木陰に陣取り座りました。
ステージの演者の顔こそ見られませんが、声は良く聞こえ、そよぐ風に涼を取りながら話をじっくり聞くことが出来ました。
ルポライターの鎌田慧さんはまだまだ会場に向かっている人がひしめいている「大成功です」と語り、会場を沸かせました。そして、「今日は沢山集まったけれど、まだまだ此の程度では全国の原発を停止しに追い込むことは困難、9月か10月頃、脱原発集会を企画し、まだまだやりましょう」と呼びかけました。
ノーベル文学賞作家の大江健三郎さんは「原発の廃炉などを求める署名を国会に出した翌日、政府は大飯原発の再稼働を発表しした」と批判しました。
また、経済評論家の内橋克人さんは「あふれ出る参加者の勇気ある『さようなら原発』の声が、歪んだ社会をただす最も大きな確かな力になっていくでしょう。責任の取りようもない人の命がかかっている「再稼働」を「私の責任で再稼働します」と言う傲慢さを許してはなりません」と政治への不信をあらわにして「福島の悲劇から学ぼうとしない政治家を二度と国会に送らないようにしましょう」」と訴えました。
作家の落合恵子さんは「野田政権が国民と言うとき、一体だれを見ているのか? ここに居る人が国民、市民」と述べ、「民主党が国民の生活重視を訴えて政権を獲得したにもかかわらず『命より原発を選んだ』」と痛烈に批判し、「命と金の二者択一を迫られていることに気付いた皆さんは、命が守られる国になるまで、自らの存在をかけて闘い続けなければならない、止める事の出来ない課題である事をお分かりと思います」との趣旨の話があり、私は、ハッとしました。
音楽家の坂本龍一さんは「42年前、18歳だった私は、日米安保改正反対でこの公園に居ました。今日は官邸前での抗議と同じように多くの市民が来ていらっしゃると思います。僕も一市民として来ました。こうやって市民が声を上げているということは、とても感無量です。電気のために、子どもの命を危険にさらすようなことはすべきではありません。お金より命です。『福島の後に沈黙するのは野蛮だ』、というのが私の信条です」と述べました。
尼さんで作家の瀬戸内寂静さんは「付き添いの人の制止を振り切って参加してきました。こんなに沢山の人に会えてうれしいです。5月で90歳になりました。100年前、自由を奪われた時代がありました。過去の人たちが苦労して、自由を守ったから今日があるのだと思います。いま、原発を止める、政府の方向を変えることになるか、わかりません。それでも集まらなければなりません。たとえ相手が効かなくても言い続けましょう」と呼びかけました。
途中、実行委員会から「17万人が参加しています」とのアナウンスがあり、大きな拍手が長く続きました。
脱原発の評論家の広瀬隆さんは、「先日の首相官邸前に続いて、本日も俳優の山本太郎さんの解説付きでヘリコプターを飛ばしているので上空から空撮してくれているものと思います」と紹介されました。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=v8UVfC06f7A
午後1時半からは3つのコースに分かれ、私たち埼玉勢は、新宿コースで「原発いらない」「再稼働反対」などと訴えて明治公園まで行き、流れ解散し、
http://mainichi.jp/graph/2012/07/17/20120717k0000m040035000c/image/001.jpg
そこで、しんぶん赤旗の号外をもらって、千駄ヶ谷の駅から帰宅の途につきました。
杉浦公昭 (2011.8.15 記す)
原発は戦争と結びついて開発された歴史を持っています。
原子力は1945年に爆弾として使用されたばかりでなく、酸素無しにエネルギーが得られる特長を生かして1954年に潜水艦の動力に使われたからです (第一号の名はノーチラス号) 。
もともと戦争のために作られたのですから、乗組員の安全などは二の次、三の次でした。
1953年、米大統領アイゼンハワーは国連で「Atoms for Peace」(平和のための原子力)を演説し、世界は愚かにも歓迎しました。
そのねらいは、核保有国の米国が世界から嫌われないようにすると同時に、軍需生産で過剰になった濃縮ウランを原子力発電として自国で消費すると共に、他国にも安価に売り、その国に核開発をさせないようにしながら、自国の軍事工場を操業短縮しないで済むようにする核独占政策にありました。
こうした核戦略の下に米国諜報機関CIAのスパイとなった暗号名ボダムこと正力松太郎読売新聞社主と同じくCIAとエイジェント契約したと言われる中曽根康弘氏が結託し、米政府の意向にそって日本への原発導入を画策し始めました。
中曽根氏ら保守党議員が1954年3月の国会に原子力研究開発予算を提出し通過させたのが日本における原発の始まりです。
中曽根氏は原発使用後の廃棄物からプルトニウムを取り出せば、簡単に長崎型の原爆ができると日本の核武装化も狙っていました。
一方、1954年3月以後に日本国内ではアメリカのビギニ水爆実験で被曝した第五福竜丸や原爆マグロ事件で原水爆禁止運動が盛り上がり、米軍基地への核配備の障害になっていました。
この障害除去に米核戦略の「原子力の平和利用」という名の対日原子力技術協力が役立ったことは、国際問題研究者の新原昭治氏が米解禁文書を解読して明らかにしました。
核戦略は「自分の利益のためには、核で人を殺しても構わない」と考える悪魔の心で成り立っています。人類とは共存できない考え方です。
核兵器という暴力を肯定し、相手の国を脅し、自らの安全を守ろうとする核抑止力という考え方も、相手国も核兵器を持つことになり、人類が滅亡する考え方です。
「ノーモア広島!、ノーモア長崎!、ノーモア被曝者!」は人類が生き残るための叫びです。
核兵器廃絶・脱原発の声を世界の隅々まで広げましょう!